雑学

真田幸村の顔を復元(復顔)すると本当にイケメン?肖像画で検証!

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 NHKの大河ドラマ『真田丸』が、人気を呼んでいましたよね。

この『真田丸』は、戦国末期の悲運の武将、真田幸村をあつかった歴史物ドラマなのですが、このドラマに登場する

真田幸村は、超イケメン

です。

それも当然で、演じる俳優さんが超イケメンだからです。

『真田丸』で真田幸村を演じるのは堺雅人さん、父親の真田昌幸役は草刈正雄さん。

いずれも当代きってのイケメン俳優さんですから、当たり前ですね。

そうなりますと、史実の真田幸村は実際にイケメンだったのか?

またどんな顔をしていたのか、そのあたりが気になる所です。

そこで今回は、戦国武将・真田幸村は、ほんとうにイケメンだったのか、そのお顔や画像などを調べてみました!

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真田幸村は本当にイケメン?

それでは、真田幸村は本当にイケメンだったのでしょうか?

現在までに残されている真田幸村のお顔がわかる画像(肖像画)を紹介しましょう。

幸村 yukimura

うーん…微妙ですね。

この画像のお顔の真田幸村は晩年らしく、かなりの年配に見えます。

いわゆる『イケメン』に分類される感じではありませんが、

知性と穏和さが感じられる、『かっこいいオッサン』というイメージ

は得られるかもしれません。

画像を見る真田幸村のお顔では、切れ長の目、すっととおった鼻筋、小さめの口元などは、イケメンと言えないこともありません。

もとより写真と違って、絵は描く人の感覚と印象で描くものです。

ですから、描く人がその人物をどのように感じ取ったかによって、まるで別人のように見えることもあります。

真を写す写真でさえ、撮影者によって、出来上がった写真はずいぶんと違ったものになることもありますよね。

ただし、戦国時代に写真はありません。

 

そこで比較的確実なモノとして、

遺骨があれば、そこから容貌や体型などを復元する技術

があります。

そのような手法を取り入れれば、かなり正確に、真田幸村の生前の容貌や体型などを確認できるでしょう。

それが、

復顔法とか復顔技術

などと呼ばれる技術です。

残念ながら、日本のこの技術は、欧米よりかなり遅れているようです。

さらに真田幸村の遺骨は残されていませんので、復顔法による復元はできません。

真田幸村は、

大阪城入城の時には、歯は抜け落ち、頭は禿げていた

ので、最初は旧知の人にも真田幸村とはわからなかったそうです。

 

古文書による真田幸村の容姿の記録は、九度山から木村綱茂という家臣に送った、自筆書状が残っています。

それによると、

「年のせいで、歯が抜け髭も真っ白になってしまった」

とあります。

また、大坂の陣で後藤又兵衛の家臣だった長沢九郎兵衛が書いた、『長沢聞書』(ながさわのききがき)という古文書もあります。

これには、主君の後藤又兵衛のことが記されているのですが、一部は真田幸村に触れた部分があります。

真田幸村は、年は45~6歳に見えた。

顔には2.3寸(6-9センチ位)の刀傷があり、小柄な人だった。

と書かれていたそうですよ。

 

信濃松代藩が編纂した『先公実録』には、兄である信幸が、真田幸村を評した記述があるそうです。

真田幸村の勇名が天下に轟いているのは、道理である。

そのふるまいは口数少なく、穏やかで猛々しくはなく、滅多に怒らない。

という内容です。

兄として、弟の真田幸村のことは、かなり高く評価していますが、この文書自体の信憑性はあまり高くないようです。

これらの記述をまとめると、大坂の陣の頃の、真田幸村の人物像はこうなります。

「年の頃は45.6歳で、小柄で髪は白く、歯は抜けていて顔に刀傷があり、口数少なく温厚篤実、めったに怒らない。」

 

うーん…

どうもあまりイケメンのイメージではないですね。

ではなぜ『真田幸村=イケメン』の図式が、現在は定着しているのでしょうか?

ひとつには悲運の名将というイメージからは、白髪歯抜けのお爺さんではピンと来ず、

「ここはやはり颯爽としたイケメンでなくちゃ!」

という、思い込みからでしょう。

もうひとつは、小説やテレビドラマ、あるいはゲームでの、華麗鮮烈な活躍ぶりから、

「華々しく凛々しいさまは、やはりイケメン!」

という理想化によるものと思われます。

事実、『真田幸村 画像』で検索しても、出て来る画像は、ほとんどがテレビドラマやゲームでの、イケメンの真田幸村像ばかりです。

実在の真田幸村を描いた肖像画は、一枚しか探し出せませんでした。

このような状態ですから、一般に

真田幸村=イケメン

と思われているのは、当然かも知れませんね。

この人物像と肖像画の画像から、筆者が思い浮かべる真田幸村の印象は、初老の知的で穏やかな風貌です。

しかし、歯が抜けていたり、白髪だったりします。

 

というわけで、残念ながら

稀代の名将である真田幸村のお顔は、『いわゆるイケメン』ではなかった

という結論になりそうです。

 

真田『幸村』はいなかった?

幸村 NrtH0aZp

真田幸村という名前ですが、実はこれは

本名ではありませんし、歴史上にも『幸村』という名前はありません。

真田幸村の本名は

真田『信繁』

です。

では、なぜ現代の我々は、"幸村"と呼びならわしているのでしょうか。

 

これが本当のところは、なんとわからないのです。

『幸村』という名前が現れたのは、大阪夏の陣以後の江戸時代に入ってからですが、その経緯などはあまり明らかになっていないそうです。

寛文12年(1672年・江戸時代初期と中期の中間あたり)に書かれた『難波戦記』という戦記に、『幸村』という記述があります。

『幸村』という名前が、ここで初めて使われたのです。

その後、

難波戦記

が当時のベストセラーとなり、

それによって真田幸村という名前が一般的になった

と言われています。

これが最も一般的な真田幸村説ですが、その他にも各説があります。

そのひとつは、 『幸』は真田家の諱(いみな)で、『村』は徳川家に祟ったという妖刀『村正』からとったなど…。

真田幸村は、その妖刀村正を所持していた話もありますが、このあたりになると、かなり眉唾ではあります。

真田幸村の刀は『正宗』で、脇差は『貞宗』というのが、史実となっています。

もう一つの説としては、諱の『幸』と、幸村の姉の『村松殿』の『村』を組み合わせて『幸村』としたというもの。

こちらも真偽はなんとも言えません。

 

なお、大阪夏の陣から200年後の、文化6(1809)年(江戸時代末期)に、松代の真田藩は、

徳川幕府の大目付から、幸村という名についての問い合わせ

を受けました。

大目付とは現代でいえば、警察庁の長官のような職務です。

ここで下手な答え方をすると、お家が取りつぶしになる恐れもあります。

その質問に対して真田藩は、

当家ではその名前は真田信繁であると考えている。

幸村の名は、信繁が大坂城入城後に名乗ったものである。

という旨の回答をしているそうです。

このあたりの成り行きは、聖徳太子不在説と少しだけ似ているようですね。

『聖徳太子不在説』とは、

聖徳太子『と呼ばれる』人物は存在しなかった

というもので、聖徳太子に相当する人物は実在していたようです。

いずれも後世になって『そう呼ばれた』あたりは似ています。

注目
幸村 eye
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真田幸村伝説

戦国随一の人気武将は、真田幸村を推す人が多いでしょう。

まさに『悲運の名将』の代名詞のような人なのです。

恩と意気に感じて勝ち薄い戦いに参戦、才能と勇気の全てをふるって徳川家康の陣に迫り、力尽きてついに落命・・・

これがカッコ良くなければ、他にカッコ良いさまなどありませんよね。

でも、彼のマネはなかなかできませんが、簡単にマネができないからこそ、カッコ良いのです。

ということで、真田幸村には様々な伝説が残されています。

もちろん、そのほとんどは後世の創作によるものですが、それがまた面白い!

 

まず、真田幸村といえば、すぐ思い浮かべるのは

猿飛佐助や三好清海入道などの真田十勇士

でしょう。

  • 猿飛佐助 天狗昇飛びきりの術を使う忍者
  • 霧隠才蔵 浅井長政の縁者で忍者
  • 三好清海入道 坊主だが怪力
  • 三好伊三入道 清海の弟で坊主
  • 穴山小助 武田信玄の縁者で幸村の影武者 
  • 由利鎌之助 名前の通り鎖鎌の名手
  • 筧十蔵 鉄砲の名人
  • 海野六郎 参謀役
  • 根津甚八 幸村の影武者
  • 望月六郎 幸村の影武者

この10名からなりますが、これは完全な創作です。

大正時代の

『立川文庫真田幸村』や『真田十勇士』

などによって広まったのです。

立川文庫は『たつかわぶんこ』と読み、大阪の立川文明堂が明治の末期から大正にかけて刊行していた書籍です。

内容は講談の聞き書きに始まり、後には完全な創作となりましたが、当時は小学生から大人まで、熱狂的な人気があったそうです。

猿飛佐助や三好青海入道が実在していれば面白いのに…。

と、思う人は多いでしょうね。

 

おまけの話として、真田幸村には12歳の娘がいて、伊達政宗の仙台藩にかくまわれていたという話もあります。

しかも、この娘はAKBも欅坂も裸足で逃げ出すほどの美少女だったというのです。

その名は『阿梅』、母親は戦国時代の名門武将、大谷吉継の娘でした。

大阪冬の陣が徳川方の完勝に終わり、大阪城は落城し幸村も落命します。

しかし、その直前に伊達正宗の重臣・片倉重綱に一丁の駕籠が着きます。

伊達正宗の重臣・片倉重綱は、幸村とも激戦を続けた勇将ですが、幸村は彼の勇武と心意気を戦いの中で感じ取り、彼に娘を預けたのです。

重綱は名将・幸村に見込まれた喜びと責任を感じ、また阿梅の美貌にも驚嘆、正室が没した後に、この阿梅を正室としてむかえました。

この家が後に『仙台真田氏』と呼ばれるようになったのです。

なお、こちらは伝説といっても史実です。

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まとめ

悲運の名将、イケメン戦国武将というのが、通常のイメージ上の真田幸村です。

ですが、こうして画像などを用いて、検証してみると、実際にはイケメンとは言えないようです。

しかし、残されている肖像画の画像などを見る限りでは、

決してブサイクな顔というわけではなく、知的で穏和なかっこいいお爺さん

という印象を受けます。

しかも、真田幸村は名将ではなく、凡将あるいはそれ以下の愚将だった説まであり、何だかよくわからなくなってしまいますね。

ともあれ、戦国時代で、人気のある武将の一人である真田幸村には、どうしても颯爽としたイケメンぶりを期待してしまいます。

それが、人の常というものなのでしょう。

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halx

記事書きのhalxです。 好きなもの: 犬(特にゴールデンレトリバー)/S.T.A.L.K.E.R.などゲーム/サッカー/ボクシング/SF/不思議感覚/超常現象/ワグナー/シベリウス/ブルーグラス などなど。 欲しいもの: 不老不死若返りの薬(切実に欲しい)/ハイエンドゲームマシン/高性能自動翻訳ツール などなど。 良い記事を書くためには、例えそれが国際情勢や遺伝子の記事でも、ハイエンドゲームマシンが絶対に必要なのです。 GTX1080Tiがなければ、国際情勢や遺伝子の記事が書けるわけがないじゃないですか!

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