歴史

楠木正成像の置いてある場所をチェック!皇居にある理由とは?

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楠木正成銅像

楠木正成銅像

皇居の中には、二つの大きな銅像があります。

一つは、和気清麻呂の銅像です。

朝廷を支配し、皇位に無理やり就こうとした怪僧・道鏡を退けた、歴史の授業では必ず出てくる奈良時代末期の英雄ですね。

そしてもう一つの銅像が、

楠木正成

この名前、歴史好きではなくても一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

大河ドラマ『太平記』を観た人なら、武田鉄也さんの熱演は今でも心に残っています。

楠木正成は、室町幕府を開いた足利尊氏に敗れた中世の武将。

『大悪党』とも評される彼の銅像がなぜ皇居にあるのでしょうか?

この記事では、楠木正成の銅像が皇居にある理由や、設置場所などを紹介していきます。

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皇居にある楠木正成の銅像の設置場所はどこ?

二重橋

二重橋

東京駅からゆっくり歩いて10分くらい。

皇居外苑の南東、

二重橋を正面に見据える場所

に花崗岩の台座に据えられた騎馬姿の武者像が楠木正成像です。

日比谷公園側から見ると、日比谷濠という大きなお堀をはさんだ石垣の上に立っています。

楠木正成像遠景

楠木正成像遠景

この勇壮な姿の騎馬像は、楠木正成が1333年に隠岐の島から帰還する後醍醐天皇をお迎えした際の雄姿を現したものです。

この銅像は、1891年に大富豪の住友家が愛媛県の別子銅山の開山200年記念事業として建立しました。

東京美術学校(現在の東京藝術大学)に製作を依頼し、高村光雲や山田鬼斎などの手によって10年の歳月を費やして製作されています。

 

皇居に銅像が立てられるほどの楠木正成の生い立ち

なにせ皇居に銅像が建てられるほどの武将です。

「天皇家とのつながりが深く、よほどの功績をあげたのではないか?」

と当然考えるところです。

しかし、

実は楠木正成ってどんな人物だったのか? 

どうして、皇居に銅像があるのか?

あまり良く知られていないのではないでしょうか。

彼の生い立ちから順番にひも解いて見ましょう。

楠木正成の生い立ち

楠木正成肖像画

楠木正成肖像画

楠木正成の出自に関しては、実ははっきりしたことは分かっていません。

楠木一族は、大阪の河内地方の豪族で鎌倉幕府には従わず『悪党』といわれている集団だったようです。

もっとも、『悪党』というのは現在のような悪人ではありません。

中央政府である幕府の命令を聞かない武士の集団を指した言葉だったようですね。

楠木正成と後醍醐天皇

楠木正成は、終生をかけて後醍醐天皇への忠義を尽くした武将です。

後醍醐天皇は、時の後二条天皇が亡くなった際に息子の邦良親王が成人するまでのつなぎとして即位しています。

その後、当初の約束を守らずに親王が成人しても天皇の地位を譲ることはありませんでした。

そして後醍醐天皇は、政治が停滞して武士や庶民から不満の声が聞かれるようになった鎌倉幕府を倒すべく京都で挙兵します。

しかし、鎌倉幕府の力を恐れ、倒幕に参加する武将は少なく劣勢にたたされてしまうのです。

追い詰められた後醍醐天皇でしたが、

「楠(くすのき)の大木にたよれ。」

という言葉を夢で見て、若き武将である楠木正成をたよります。

楠木正成も、これに応えるように鎌倉幕府打倒のために挙兵するのでした。

建武の新政!しかし後醍醐天皇は人気なし!

大阪で挙兵した楠木正成や北関東で挙兵した新田義貞の活躍によって鎌倉幕府は滅亡。

後醍醐天皇は朝廷による新たな政治体制を構築します。

いわゆる『建武の新政(中興)』ですね。

しかし、後醍醐天皇の公家を中心とした新政府は、十分な恩賞を得られなかった武士にとっては、評判はよくありませんでした。

不満を持った武将の間では新たなリーダーとして鎌倉幕府滅亡にも貢献した足利尊氏の人気が一気にたかまり、後醍醐天皇の新政府はわずか2年半で倒されてしまいます。

京都を追われた後醍醐天皇は、足利尊氏が新たに擁立した天皇に対抗して、奈良の吉野で正当な天皇であることを宣言します。

しかも、天皇の証である三種の神器を持ち出して。

京都の天皇の流れを『北朝』。

吉野で宣言した新たな天皇の流れを『南朝』。

これが歴史に言う南北朝時代の始まりです。

滅び行く南朝に最期まで忠義を尽くす

この中にいて、楠木正成は足利尊氏との和睦を必死になって後醍醐天皇に訴えたようです。

しかし、公家のプライドから、その進言は受け入れられません。

また、戦にあたっては得意の奇襲作戦も

「天皇の名がすたる」

と受け入れられず、

楠木正成はわずか七百人の兵で二万人を超す大軍勢と戦うこと

になります。

合戦の地は現在の神戸市中央区あたりです。

湊川を背に背水の陣で正成は足利尊氏と対峙して陣を敷きました。

この時、足利軍は総攻撃を仕掛けてきません。

正成という武将を惜しんだ足利尊氏が、なんとか楠木正成の命を助けたいと願い、降伏を待ったのではないかといわれています。

しかし、楠木正成は

「命惜しむな、名こそ惜しめ。」

の言葉と共に足利軍に切り込み壮絶な最期を遂げてしまいます。

このときも自らが捨て身となって足利軍をおしとどめて、後醍醐天皇を守るための時間稼ぎの盾となったのでした。

逆賊・朝敵・大悪党!

後醍醐天皇を守り、最期まで戦い抜いた楠木正成。

奮戦かなわず湊川の戦で命を落とし、後醍醐天皇が吉野で開いた『南朝』も、その後4代で途切れてしまいます。

その後は北朝系統の天皇が江戸時代まで続くことになるのです。

楠木正成には朝敵(天皇の敵)のレッテルが貼られ、

『逆賊』『大悪党』

と長い間評価されるようになっていくのです。

 

皇居に楠木正成像が建てられた理由

逆賊・大悪党となった楠木正成ですが、その銅像を見ると二重橋の正面に

「今すぐにでも駆けつけられるように」

と建てられています。

 

これは、本当に逆賊・大悪党の銅像なのでしょうか?

 

その謎を解く鍵は、幕末にありました。

尊皇、つまり天皇を敬い重んじる思想に傾いた薩摩藩と長州藩。

倒幕を目指す有力な二藩で、天皇忠義の武将である楠木正成が見直されることになったのです。

南朝と薩長

西郷隆盛

西郷隆盛

薩摩藩の西郷隆盛は、南朝の忠臣である菊池家の子孫といわれ、そのため、別名を『西郷南州』と名乗っています。

そして長州藩には、代々南朝の子孫をかくまい、守ってきた歴史があります。

薩長同盟締結の際にも、桂小五郎は西郷隆盛に

「長州は南朝の子孫をかくまっている。」

とささやいたとか。

このことから、薩長は南朝復活を悲願として掲げ、同盟の成立を成し遂げたという逸話も残っています。

明治維新の隠れた側面

明治天皇

明治天皇

そして、徳川幕府が倒れて、明治新政府に、南朝系統の明治天皇が即位しました。

明治維新には、

北朝系の天皇から南朝系の天皇へのスイッチ

という意味もあったのです。

徳川幕府と薩長同盟の戦いは、室町時代から続く南朝と北朝の争いがその根源にあったとも言えますね。

 

学校の社会や歴史の授業では決して語られることのない、明治維新の隠れた側面です。

住友家が楠木正成の銅像を建立した時は、明治天皇も生きていた時です。

このことから、

銅像には南朝復活の象徴としての役割

があるのではないでしょうか。

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おわりに

楠木正成が最期まで南朝に忠義を尽くしたのは、低い身分だった自分を取り立ててくれた忠義心からです。

『忠義を重んじる』という思想は、戦国時代から明治・大正・昭和と長く生き続け、いつしか楠木正成が日本を代表する『忠臣』として敬われるようになりました。

楠木正成が生きていた時代から、およそ750年の時が経過しています。

しかし銅像を見上げると、

「忠臣として天皇家を守り、いつでも駆けつける。」

その気概が、いまでも伝わってくるような気がしますね。

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watari1

好きなもの:野球、アニメ・ゲーム、特撮 趣味:ゲームに没頭すること、文字書き 座右の銘:『なるようにしかならない』 何をどれだけ貯めていようと、命尽きれば人生は終わり。 終わってしまった過去も、何が起こるかわからない将来も、考えるだけ無駄ではないか? そう考えたことがきっかけで、それなら今を楽しむことだけ考えよう、を信念に日々を過ごすようになりました。 自分の興味関心のある出来事やニュースについて、偏屈者ではありますが、思うままに綴っていければと思っています。

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