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小田氏治とは?経歴と戦国武将としての評価や最弱エピソードを紹介

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戦国最弱と言われる戦国大名…と言われると、誰が思い浮かぶでしょうか?

連戦連敗を重ね、戦国最弱と言われながらも、家臣や領民からの信頼が厚く、何度も城を奪われても、その度に奪い返して蘇った戦国大名がいます。

その戦国大名というのが、『常陸の不死鳥』こと、小田氏治です。

戦国好きの人でないと知らないようなマニアック大名なのですが、なんと、2018年6月13日の『歴史秘話ヒストリア』で取り上げられるとのこと。

当記事では、『歴史秘話ヒストリア』でまさかのピックアップをされた戦国最弱の大名・小田氏治について、経歴や評価、最弱エピソードを紹介します!

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戦国最弱大名・小田氏治の経歴を紹介

最弱の戦国大名…

筆者としては、あまりに無能すぎた大友義統や、教養は高かったものの、あまりに謙虚過ぎた山名豊国、さらにはダメ大名筆頭の一条兼定などが思い浮かびますね。

ただ、無能大名=最弱かというと、そうとは限りません。

あまりに弱いという意味ならば、『信長の野望』の紹介でも、

『連戦連敗』

と書かれてしまった大名・小田氏治が有名ですよね。

筆者的には、何度も小田城を奪い返している実績があるので、最弱と呼ぶのはどうかと思うのですが…。

それはさておき、小田氏治という戦国大名は、一体どのような生涯を送ったのでしょう?

さっそく、小田氏治の経歴を紹介していきます。

 

小田氏治は、小田家15代当主であり、小田家最後の当主でもあります。

後に出家して『天庵』という名前になりました。

小田氏治の父は小田政治。

父は堀越公方・足利政知の子として小田家最盛期を築き上げた名君でした。

小田家は、辿っていけば源頼朝の落胤と言われているので、かなり地位の高い家柄なんですね。

しかし、戦国時代の中でも激戦区の1つだった関東という場所に生まれてしまった小田氏治。

周りは戦国大名の中でも強豪、そして有名どころが集まっていました。

同じ常陸には佐竹義昭・義重親子、下総には結城政勝・晴朝親子、越後にはあの上杉謙信。

さらに相模には北条氏康・氏政親子までいるというカオス状態。

それでも、北条氏の協力を得て、何とか領地を守っていたのです。

 

大きな転機が訪れたのは、小田氏治が14歳の頃。

名君であった父・政治が亡くなり、家督を継ぐこととなりました。

そしてこの頃、臣従していた長尾景虎(後の上杉謙信)とともに、結城政勝を攻めることになったのです。

しかし結城氏は、北条氏康の援助を受けて抵抗され、逆に攻め入られてしまいます。

ここで小田氏治は結城氏に攻められ、海老ヶ島の戦いで敗北。

さらには居城だった

小田城は落城

してしまいます。

 

しかし、ここから常陸の不死鳥伝説が幕を開けます。

北条氏康が常陸進出を目論んで佐竹氏排除を狙ったことから、小田氏治と和睦。

このおかげで、北条という大きなバックを手に入れた小田氏治。

半年後に結城氏を追い返して、見事に小田城を奪還するのです!

 

ただ、北条と和睦したため、今度は上杉家と対立してしまうことになります。

小田氏治は、上杉と同盟を結んでいた佐竹義昭を留守の隙に攻めるのです。

しかし、ここで上杉謙信が救援要請を受けて出陣!

さすがに上杉・佐竹連合軍には敵わず、あっけなく小田氏治は敗戦。

さらに追撃を受けて、

またもや居城の小田城を落とされてしまった

のです。

 

ここからが、小田氏治お決まりのパターン展開に入ります。

小田氏治は小田城を奪われると、毎回重臣・菅谷政貞を頼り、彼とともに小田城を奪還する…。

という展開が何度も続きます。

事実、2度目の落城の際も、半年後に菅谷政貞が小田城の奪還に成功しているのです。

 

しかし、その一年後に再び上杉謙信が襲来!

戦国最強と言われた軍神が相手では、さすがに勝てず、またもや小田城が落城してしまうのです。

ただ、小田城の城壁を修復しないという条件で上杉謙信に降伏し、何とか小田城を奪還することに成功します。

この後は、佐竹氏との戦いで、

何度も小田城が落城しては奪還しての繰り返し

だったのですが…。

ついに、最後の小田城落城が起きてしまいます。

それが、1572年のこと。

一度は小田家家臣として活動していたものの、佐竹に寝返り、過去に小田城を落城させたことのある太田資正が攻めてきます。

そして資正の策にはまり、小田城は落城。

その後も藤沢城、土浦城と落とされ、一時期は北条氏政の援助で抵抗したものの…。

頼みの北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅亡。

1590年の樋ノ口の戦いで、最後の小田城奪還を試みますが失敗してしまい、ついに小田城奪還の夢は絶たれたのです。

 

何度も負けながら、その度に小田城奪還をしてきた小田氏治。

最後の奪還に失敗した後は、表舞台に立つことなく、ひっそりと暮らすことになります。

というのも、秀吉の直臣になることを望むも、

「小田原攻めの際に小田城奪還の戦を起こし、豊臣方の佐竹に反旗を翻した」

として、所領を没収され、鎌倉時代から続いた名門・小田家は滅亡してしまったのです。

ただ、小田氏治自体は処刑などされたわけではありません。

娘・駒が徳川家康の次男・結城秀康の側室だったため、その縁から秀康の客分になることは許され、秀康から300石が与えられました。

その後、1602年1月6日に病没、享年69歳でした。

奇しくも同じ1602年に、佐竹氏が秋田に転封となったため、小田城も廃城になりました。

小田城廃城の同年に亡くなるとは…。

まさに小田氏治は、居城・小田城とともに過ごした人生だったと言えるでしょう。

 

小田氏治の最弱エピソードを紹介!弱いのに人望は厚かった?

小田氏治という戦国大名は、経歴を見てわかる通り、

何度も居城を奪われ、最後の当主となってしまったダメな大名

と思われがちです。

事実、これ以外にも何度も戦に負け、さらにはしなくていい戦を起こして負けている無能ぶりも見せてしまっています。

そんな小田氏治の最弱エピソードを紹介しましょう。

小田氏治の最弱エピソード1 家臣の言うことを聞かない

 

太田資正の挑発に乗ってしまい出陣、その後、大敗を喫した小田氏治。

しかし、実はこの出陣前に、重臣である菅谷政貞に諫められていました。

…が、これを聞かずに出陣してしまい敗北するなど、あれだけ優秀な忠臣が多くいたのに、この無能ぶり…。

これでは、戦国最弱と言われてしまっても仕方ないですね。

本当に、なぜ彼には菅谷政貞をはじめとして、優秀な家臣が多く存在、しかも領民にまで慕われていたのでしょうか…。

小田氏治の最弱エピソード2 戦が下手すぎる

なぜ小田氏治はここまで戦国最弱と言われるのか?

その理由には、

戦がとくに下手である

という理由があると思います。

1556年の海老ヶ島の戦いの際、結城軍を攻めようにも、沼地で足がはまってしまい、思うように攻めることができず敗北しました。

このことを覚えていた小田氏治は、8年後に上杉謙信との海老ヶ島城を巡る戦いで、

川を背にして背水の陣を敷いて臨む

という、前方が沼地なため、上杉軍は攻めづらいだろう…と、土地勘を活かした戦法を取ろうとしたのです。

しかし、先に陣取っていたのは上杉軍。

しかも指揮官は軍神であり野戦最強とも言われる上杉謙信です。

地形の事前リサーチをしていないはずがありません。

沼にはまることなく攻め込んできたため、あっけなく敗戦してしまうのでした。

このように、野戦でもあまりいい結果が出ていないのに、

居城を何度も奪われては奪い返しての繰り返し

だったわけですから、正直なところ、攻城戦も上手いとはいえないでしょうね。

あのWikipediaにも、

「敗退」

「敗走」

「敗北」

「大敗」

という文字が数行のうちにいくつも出てきます。

これも、小田氏治の弱さと言っていいでしょう。

一応、平塚合戦などの奇襲による勝利なども収めていますが、あの合戦で奇襲をしたのは菅谷政貞です。

彼がいなかったらと思うと、小田氏治は上杉軍との戦いあたりで亡くなっていたでしょうね…。

小田氏治の最弱エピソード3 しなくてもいい戦を仕掛けてしまう

小田氏治が弱い理由には、しなくてもいいような戦をしてしまい、無駄な戦力消耗をしてしまうところにもあります。

たとえば、宿敵である結城政勝は56歳で亡くなり、その子・明朝もわずか1日で亡くなりました。

これをチャンスと見た小田氏治は、結城城を攻めるのですが…。

結城城には当時、武勇に優れた正勝の実弟・小山高朝がいて、これに抵抗。

さらには"鬼真壁"こと真壁氏幹の援軍が来て敗北。

さらに追撃を受けて小田城まで失ってしまいました。

これでは、関八州古戦録で、

『無用の戦』

と言われてしまうのも仕方ありません。

まさにしなくていい戦をしてしまったと言えるでしょう。

 

このように、戦下手で家臣の言うことは聞かない…。

とてつもない無能大名だったと言える小田氏治ですが、唯一、戦国大名の中でもトップクラスと言えるものを持っていました。

それが、人望です。

何度も小田城を失い、その度に重臣たちが討たれているのに、毎回1年ほどで小田城を奪還できている事実。

毎回小田城が奪還できた理由には、家臣たちが一団となって小田氏治とともに戦ったからとしか言えません。

あれだけ無能でも、常に支えてくれる家臣がいるなんて、羨ましいことですよね。

とくに菅谷政貞・範政親子の忠誠は非常に厚いものでした。

政貞は嫡子が戦死しようとも忠義を貫き小田氏治のために戦い、範政は降伏後も小田家へ忠誠を尽くし、

土浦城奪還の際には直ちに城を明け渡す

といった行動をとっています。

また、家臣だけではなく、小田氏治は領民からの人望も厚かった人物です。

新たな領主が来ても、その領主に対して年貢は納めず、領民はずっと小田家に対して年貢を納め続けました

その人望がどこから来るのか…。

とても不思議ですが、おそらく名門・小田家の当主であり、統率能力は別として、

氏治個人の武勇は光るものがあった

からだと思っています。

というのも、宿敵の1人・佐竹義昭は、上杉謙信にあてた書状で、

氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、右大将家(源頼朝)以来名望のある豪家であり、氏治もまた普通に優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている。

と評価しているからです。

戦下手ながら、幾度となく失った居城を取り戻せたのも、小田氏治の人徳のなせる業…。

そこまで信頼され、慕われている部分には、羨ましさを感じます。

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まとめ

戦国最弱と言われる大名・小田氏治は、何度も戦に敗北しては居城・小田城を失うも、その度に居城を奪い返してはまた負ける…。

まさに、『不死鳥』にふさわしい復活劇を見せてきた人物でした。

そして何より謎なのが、不死鳥・小田氏治を支える忠臣たちを惹きつけた人望でしょう。

小田氏治の人望については謎な部分しかなく、なぜ無能な大名が家臣に恵まれたのか…。

采配は下手、しかも部下の言うことを全く聞かない…。

そんな上司など、普通は皆離れていくものです。

しかし小田氏治の場合は違って、忠義を尽くす家臣が多く揃っていました。

小田氏治のその人望が羨ましい限りですね。

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watari1

好きなもの:野球、アニメ・ゲーム、特撮 趣味:ゲームに没頭すること、文字書き 座右の銘:『なるようにしかならない』 何をどれだけ貯めていようと、命尽きれば人生は終わり。 終わってしまった過去も、何が起こるかわからない将来も、考えるだけ無駄ではないか? そう考えたことがきっかけで、それなら今を楽しむことだけ考えよう、を信念に日々を過ごすようになりました。 自分の興味関心のある出来事やニュースについて、偏屈者ではありますが、思うままに綴っていければと思っています。

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