六文銭 5
NHKの大河ドラマ『真田丸』が、人気を呼んでいますよね。

この『真田丸』は、戦国末期の悲運の武将、真田幸村をあつかった歴史物ドラマなのですが、このドラマに登場する真田幸村は、超イケメンです。

それも当然で、演じる俳優さんが超イケメンだからです。

「真田丸」で真田幸村を演じるのは堺雅人さん、父親の真田昌幸役は草刈正雄さんで、いずれも当代きってのイケメン俳優さんですから、当たり前ですね。

そうなりますと、史実の真田幸村は実際にイケメンだったのか?

またどんな顔をしていたのか、そのあたりが気になる所です。

そこで今回は、戦国武将・真田幸村は、ほんとうにイケメンだったのか、そのお顔や画像なども調べてみました!

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真田幸村は本当にイケメン?

それでは、真田幸村は本当にイケメンだったのでしょうか?

現在までに残されている真田幸村のお顔がわかる画像(肖像画)を見てみました。

幸村 yukimura

うーん…微妙な所ですね。

これは真田幸村の晩年のものらしく、かなりの年配に見えます。

いわゆる『イケメン』に分類される感じではありませんが、知性と穏和さが感じられる、「かっこいいオッサン」というイメージは得られるかもしれません。

画像を見る真田幸村のお顔では、切れ長の目、すっととおった鼻筋、小さめの口元など、一応は、イケメンと言えないこともありません。

もとより、写真と違って、絵は描く人の感覚と印象で描くものですから、描く人が、その人物をどのように感じ取ったかによって、まるで別人のように見えることもあります。

真を写す写真でさえ、撮影者の持つイメージによって、出来上がった写真は随分と違ったものになることもありますよね。

比較的確実なものは、遺骨があれば、そこから容貌や体型などを復元する技術があります。

そのような手法を取り入れれば、かなり正確に、真田幸村の生前の容貌や体型などを確認できるでしょう。

これは復顔法とか復顔技術などと呼ばれる技術です。

残念ながら、日本のこの技術は、欧米よりかなり遅れているようです。

さらに真田幸村の遺骨は残されていませんので、復顔法による復元はできません。

真田幸村は、大阪城入城の時には、歯は抜け落ち、頭は禿げていたので、最初は旧知の人にも真田幸村とはわからなかったそうです。

古文書による真田幸村の容姿の記録は、九度山から木村綱茂という家臣に送った、自筆書状が残っています。

それによると

「年のせいで、歯が抜け髭も真っ白になってしまった」

とあります。

また、大坂の陣で後藤又兵衛の家臣だった長沢九郎兵衛が書いた、『長沢聞書』(ながさわのききがき)という古文書もあります。

大半は主君の後藤又兵衛のことが記されているのですが、一部は真田幸村に触れた部分があります。

「真田幸村は、年は45.6歳に見えた。顔には2.3寸(6-9センチ位)の刀傷があり、小柄な人だった」

と書かれていたそうですよ。

信濃松代藩が編纂した『先公実録』には、兄である信幸が、真田幸村を評した記述があるそうです。

「真田幸村の勇名が天下に轟いているのは、道理である。そのふるまいは口数少なく、穏やかで猛々しくはなく、滅多に怒らない」

というような内容です。

弟の真田幸村ことは、かなり高く評価していますが、この文書自体の信憑性はあまり高くないようです。

これらの記述をまとめると、大坂の陣の頃の、真田幸村の人物像はこうなります。

「年の頃は45.6歳で、小柄で髪は白く、歯は抜けていて顔に刀傷があり、口数少なく温厚篤実、めったに怒らない」

うーん…

どうもあまりイケメンのイメージではなさそうですね。

ではなぜ『真田幸村=イケメン』の図式が定着しているのでしょうか?

ひとつには悲運の名というイメージからは、白髪歯抜けのお爺さんではピンと来ず、

「ここはやはり颯爽としたイケメンでなくちゃ!」

という、思い込みからでしょう。

もうひとつは、小説やテレビドラマ、あるいはゲームでの、華麗鮮烈な活躍ぶりからも、その

「華々しく凛々しい様は、やはりイケメン!」

という理想によるものと思われます。

事実、『真田幸村 画像』で検索しても、出て来る画像は、ほとんどがテレビドラマやゲームでの、イケメンの真田幸村像ばかりです。

実在の真田幸村を描いた肖像画は、一枚しか探し出せませんでした。

このような状態ですから、一般に

真田幸村=イケメン

と思われているのは、当然かも知れませんね。

この人物像と肖像画の画像から、筆者が思い浮かぶ、真田幸村の印象は、初老の知的で穏やかな風貌だが、歯が抜けていたり、白髪だったりで、冒頭でお話した

「カッコいいお爺さん」

ですね。

というわけで、残念ながら稀代の名将である真田幸村のお顔は、いわゆるイケメンではなかったということになりそうです。

 

真田”幸村”はいなかった?

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真田幸村という名前ですが、実は、これは本名ではありませんし、歴史上にも”幸村”という名前はありません。

真田幸村の本名は真田”信繁”です。

では、なぜ現代の我々は、幸村と呼びならわしているのでしょうか。

これが本当のところは、なんとわからないのです。

“幸村”という名前が現れたのは、大阪夏の陣以後の江戸時代に入ってからですが、その経緯などはあまり明らかになっていないそうです。

寛文12年(1672年・江戸時代初期と中期の中間あたり)に書かれた『難波戦記』という戦記に、”幸村”という記述があり、”幸村”という名前が、ここで初めて使われたのです。

その後、『難波戦記が当時のベストセラーとなり、それによって真田幸村という名前が一般的になった、と言われています。

これが最も一般的な真田幸村説ですが、その他にも各説があり、 「幸」は真田家の諱(いみな)で、「村」は徳川家に祟ったという妖刀「村正」からとったなど…。

真田幸村は、その妖刀村正を所持していたという話もありますが、このあたりになると、かなり眉唾ではありますね。

真田幸村の刀は「正宗」で、脇差は「貞宗」というのが、史実のようです。

もう一つの説としては、諱の「幸」と、幸村の姉の「村松殿」の「村」を組み合わせて「幸村」としたというもの。

こちらも真偽はなんとも言えません。

なお、大阪夏の陣から200年後の、文化6(1809)年(江戸時代末期)に、松代の真田藩は、徳川幕府の大目付から、幸村という名についての問い合わせを受けました。

その質問に対して真田藩は、

「当家では名前は真田信繁であると考えている。幸村の名は、信繁が大坂城入城後に名乗ったものである」

という旨の回答をしているそうです。

 

まとめ

悲運の名将、イケメン戦国武将というイメージの真田幸村ですが、こうして画像などを用いて、検証してみると、実際にはイケメンとは言えないようです。

しかし、残されている肖像画の画像などを見る限りでは、決してブサイクな顔というわけではなく、知的で穏和なかっこいいお爺さんという印象を受けます。

しかも、真田幸村は名将ではなく、凡将あるいはそれ以下の将だった、という説まであり、何だかよくわからなくなってしまいますね。

ともあれ、戦国時代で、もっとも人気のある武将である真田幸村には、どうしても颯爽としたイケメンぶりを期待してしまうのは、人の常というものなのでしょう。